Xで「豚肉店がハラル対応を求められ、断った」という話を見た。今さらだが、こういう話は決まって途中で別のものに化ける。
たかが線引きの話が、いつの間にか“陣営戦”になる。
出発点は単純だ。
できないものはできない。扱っていないものは扱えない。それだけである。店の判断は店のものだ。ここに善悪の物語を盛る必要はない。
ところが次の瞬間、誰かが「それは差別だ」と言い出す。
すると反対側の極端が、ほぼ確実に呼び寄せられる。
「侵略だ」「外人はいらない」──主語が膨張し、話は壊れる。線引きの話が、排斥の話にすり替わる。
違う。
店の判断を、集団への憎悪に変換するのは雑すぎる。店を守るふりをして、自分の怒りを正当化しているだけだ。そこに正義はない。
ただし、反対側にも雑さがある。
「宗教だから配慮して当然」という顔で、店の線引きを“無礼”として踏みつける雑さだ。配慮とは、相手の領域に命令を差し込むことではない。
ここは日本で、日本は民主主義と資本主義の社会である。
つまり、需要があるなら市場が反応する。ハラルが必要なら、ハラルをやる店が増えればいい。儲かると思う人が始めればいい。誰も止めない。これは自由だ。
だが、既存の豚肉店に押し付けるのは別問題である。
豚を扱う店に「豚を扱うな」と迫るのは、配慮ではない。交渉でもない。命令である。相手の仕事と信念に、こちらの都合をねじ込む行為だ。
宗教の自由はある。
しかしそれは「自分が守る自由」であって、他人の厨房に介入する免罪符ではない。
ここを曖昧にしたまま「配慮」を名乗る人に、ひとつだけ聞きたい。
日本側の社会や意見を無視して、自分の都合を押し付けるのは傲慢ではないのか。
言葉を丁寧にしても、中身が命令なら同じである。
さらに皮肉なのは、その傲慢が、当人たちの宗教の建付けとも噛み合わない点だ。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のアブラハム系伝統は、少なくとも理念として傲慢(高慢)を美徳に置かない。イスラム圏でよく知られる伝承では、高慢を「真理の拒絶と他者の見下し」と定義する。
もし信仰を掲げながら他者を見下し、従わせることに熱心なら、それは信仰の実践ではなく、信仰を道具にした傲慢の演出に見える。神を掲げながら、神を軽く扱っているのはどちらだ、という話になる。
もちろん「ここは日本」も万能札ではない。だから排斥に飛ぶのも間違いだ。
落とし所は単純である。
やりたい人がやる。やりたくない店は断る。
その“断る自由”を潰して成立する配慮は、配慮ではない。
正義の顔をした命令ほど、断りにくい。そこが一番危険だ。
だから線引きは、線引きとして守る。憎悪にも、命令にも、変換させない。それでいい。


コメント