白馬は何を守り、何を差し出すのか──観光の繁栄が生む静かな撤退

※本稿は下記ニュースを読み、考えたこと。
参照ニュース:『観光客急増で「落書き」「騒音」など迷惑行為が問題に…違反者に罰金5万円以下 白馬村「罰則付きマナー条例」可決 村民「抑止力になる」』/ https://www.fnn.jp/articles/-/977218

※注意:本稿は「観光客」「外国人」などの話題に触れますが、属性で断罪しません。見たいのは“人”ではなく、“構造”です。

白馬も、ここまで来た

白馬も、とうとうこの段階に来た。
観光客が増え、迷惑が増え、「マナー」と「罰則」がセットで出てくる。観光地の定番コース。

ここで気になるのは、迷惑行為そのものよりも、手順の美しさだ。
増やして、荒れて、縛る。
縛って、少し落ち着いて、また増やす。
この社会は、矛盾を“運営”という言葉で包むのが上手い。

罰金は「行為」を止める。構造は止まらない

罰金は効く。
落書き、騒音、迷惑運転。そういう「個人の行為」に対しては、たぶん効く。

でも、罰金で止まらないものがある。
「人が増えれば、生活が削れる」という、ほぼ物理の話だ。

人が増えれば、ゴミが増える。音も増える。道の混雑も増える。
それを片付ける人手も、時間も、摩耗も増える。
その“社会的コスト”は、いつ誰が払っているのだろう。

稼がないと払えない。でも、稼ぐほど壊れる

自由な市場は、活性化を正義にしがちだ。
人が来ればお金が落ち、雇用が生まれ、税も入る。
稼がなければ、清掃も、交通も、ルール周知も、結局は回らない。

だから「もっと来てほしい」と願う。
同時に「これ以上来ないでほしい」とも願う。
資本主義+民主主義は、だいたいこの二つを同じ口で言う仕組みだ。

ここで嫌なのは、どちらも間違っていないこと。
正しい主張が二つ並ぶと、残るのは“暮らしの摩耗”だけになる。

「罰金しかないのか」という、遅れてくる問い

罰金は、最後の句読点に見える。
文章を終わらせるための「。」であって、本文ではない。

本当の本文は、「どうやって“増える圧”を扱うか」だと思う。
罰金は“やってはいけない”を示す。
でも、“増え続ける”のほうは、誰が止めるのだろう。

それでも他の手は、頭の中には浮かぶ

例えば、地域の中で特区を作る。
“滞在していい場所”と“生活を守る場所”を、もっと露骨に分けてしまう。
綺麗な言い方をすればゾーニング。生々しく言えば、線引き。

例えば、観光税や宿泊税。
「来る自由」があるなら、「維持費」も分担してもらう。
それは罰ではなく、使用料に近い。

例えば、人数や車の流入に上限をつける。
あるいは、ピークの時間帯だけ強く抑える。
“全部許す”か“全部締める”かの二択じゃなくて、呼吸の調整。

ただ、こういう案を並べても、気持ちよくはならない。
上澄みのいいところだけを取る方法は、たぶん存在しない。
便利さには、必ず重さが付いてくる。

幸せって、何のことだろう

ここで、話は少し生き方に寄ってしまう。
白馬の「幸せ」は、どこに置くのが正しいのだろう。

稼げること?
にぎわいがあること?
それとも、眠れること?
静けさが残ること?
子どもが“ここに住み続けてもいい”と思えること?

「生きるためにパンを食べる」のか、
「パンのために生きる」のか。
観光地は、いつもその入れ替わりの境目に立たされる。

最後は、住民がどうしたいか──でも、その“住民”は残るのか

結局、最後は「そこに住む人がどうしたいか」になる。
民主主義らしい結論だ。

ただ、ここで一つだけ、冷たい疑問が残る。
観光が成功するほど、地価も家賃も上がり、住民が入れ替わることがある。
“どうしたいか”を決める当事者が、静かに入れ替わっていく。

私は、罰金の是非より、そっちのほうが怖い。
この場所は、いつから「暮らす場所」ではなく「運営される商品」になったのだろう。

出典メモ(事実確認)

  • 白馬村議会で「マナー条例」改正案が可決され、違反者に5万円以下の罰金を科すこと、条例は2025-12-18施行で、罰則規定は2026年7月から適用と報道されています。 (FNNプライムオンライン)
  • 宿泊した観光客数が2024年に271万人余り(前年から32万人増)とされている点も同記事に記載があります。 (FNNプライムオンライン)
  • 白馬村は財源確保の文脈で、宿泊税条例と「持続可能な観光地経営に関する条例」を進めており、いずれも2026-06-01施行予定と村公式サイトで示されています。 (vill.hakuba.lg.jp)

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