文化を守れ、と言う前に—“ただ乗り”の請求書を見よう

駅弁が減った、というニュースを見て、いちばん楽な感想は「寂しい」だ。
けれど、その寂しさを口にするのは無料で、残すための仕組みは有料だ。
ここを飛ばすと、「文化」という言葉は、気持ちよく終わるための便利なラベルになってしまう。

文化は無料で語れるが、維持は有料だ

「駅弁は文化だ」までは、誰でも言える

駅弁のニュースを見て、「文化だ、守れ」と反射する。
その反射自体は、悪くない。旅の風景が薄くなるのは寂しいし、土地の味が均されていくのはつまらない。だから「残ってほしい」と思う。ここまでは、人間として自然だ。

ただ、若干の危うさも混ざる。
「文化」という言葉は、たいてい“善い”側に置かれる。善い側に置かれた瞬間、議論は少し楽になる。反対しづらいからだ。守れと言えば、正しい顔ができる。いい人の側に立てる。いまの世の中、この“いい人ポジション”は、なかなか手放しがたい。

でも、文化は気持ちよく語れるぶん、話がそこで止まる。
止まった先に、いつも同じ空白が残る。——その文化の維持費は、誰が払うのか。

なくなりそうだから守れ、は“請求書を見ない正義”になりやすい

「なくなりそうだから守れ」という言葉は、緊急性があって耳ざわりが良い。
火事場の正義は、だいたい勢いがある。勢いがある正義は、細部を見ない。細部とは、だいたい面倒な数字と、地味な段取りと、誰かの負担の話だ。

駅弁が減った理由は、コンビニの登場だけではない。移動の高速化で、車内でゆっくり食べる時間が薄くなった。停車時間も短くなり、ホームで買う体験が消えた。車内販売も減り、あの「車内で選ぶ」時間も痩せた。つまり駅弁は、商品として負けたというより、“舞台”を失った。

舞台を失った文化に対して、「守れ」と言う。
それは、舞台を再び用意するという意味なのか。
それとも、舞台はもう要らないから、文化“っぽいもの”だけ残せばいい、という意味なのか。
ここを曖昧にしたまま「守れ」と叫ぶと、話はふんわりと“いい話”のまま終わる。

文化を守るというのは、実はかなり不親切な作業だ。
守るとは、何かを優先することだ。優先するとは、何かを後回しにすることだ。後回しにされた側には、必ず不満が生まれる。だから守るなら、まず請求書を見なければならない。
「残ってほしい」と言うなら、残すコストを引き受ける覚悟がいる。

コストは誰が払う?——ここを飛ばすと議論はただの気分になる

駅弁が高い、という声は必ず出る。
では、その「高い」をどう扱うのか。
高いから買わない、は合理的だ。合理的であるほど正しい。けれど合理性だけで社会を回すと、社会はたいてい薄くなる。薄くなるというのは、心の話ではなく、構造の話だ。余白が消え、冗長性が消え、回遊する時間が消える。結果として、文化は「趣味」か「贅沢」か「迷惑」になる。

ここで一度、露骨に言う。
文化を語るのは無料だが、文化を維持するのは有料だ。
有料の話になると、急に人は口数が減る。文化を守れと言いながら、財布の話は避ける。避けるから、守るはずの文化がいちばん先に消える。

ただ乗りで回る仕組みは、最後に必ず壊れる

普段から多少高くても買わないのは、なぜか

「守れ」と言うなら、普段から多少高くても買う。
理屈は単純だ。支えるとは、買うことだ。
登録だのムーブメントだのを起こす前に、レジ前の支払いが一番強い。文化に対する投票は、だいたい財布で行われる。

なのに、普段は買わない。
買わない理由は、だいたい正しい。「高い」「時間がない」「匂いが気になる」「ゴミが面倒」「食べる場所がない」。どれももっともだ。
だが、もっともな理由が積み重なると、最後に残るのは“誰も悪くないまま消える文化”だ。これが一番厄介だ。悪者がいないから、改善の議論が生まれない。正しい事情だけが並び、文化だけが静かに退場する。

そして退場した後になって、「やっぱり残しておけばよかった」と言い出す。
この流れ、どこかで見たことがある。駅弁に限らない。

町内会も会社も同じ——善意に押しつける構造

町内会でも同じだ。
回覧板、清掃、祭り、集金、見回り。やる人がいるから回る。
やる人が減ると、「最近はみんな忙しいから仕方ないよね」と言う。これも正しい。
しかし正しさが積み上がると、最後に残るのは“やる人だけが損をする仕組み”だ。

会社でも同じだ。
親切なスタッフが段取りを回し、誰かのミスを拾い、雑務を飲み込み、空気を整える。
周りは「助かる」「ありがたい」と言う。言うだけなら無料だ。
その人が疲れて退職すると、「最近は人手不足で大変だね」と言う。これも正しい。
だが、正しいまま続くと、親切は枯れる。枯れると、仕組みも枯れる。

駅弁の話は、この“善意にただ乗りする構造”と同型だ。
「残ってほしい」と言いながら、普段の支払いは避ける。
「文化だから守れ」と言いながら、文化の運営コストは誰かに押しつける。
押しつけられた側が疲れたら、ようやく寂しさに気づく。

知ってて悪用する人が混ざると、仕組みは加速度的に腐る

さらに現実はもう一段いやらしい。
ただ乗りは、無自覚な人だけではない。知っててやる人もいる。
「誰かがやるだろう」と理解したうえで、平然と乗る。
町内会でも、会社でも、“あの人がやってくれるから”を前提に動く人が必ず出る。しかも、そういう人ほど声が大きい。要求が多い。

文化の維持に必要なのは、派手な正義ではなく、静かな分担だ。
ところが、分担は目立たない。目立たないから評価されない。評価されないから担い手が減る。担い手が減ると、「守れ」と叫ぶ人の声だけが残る。叫ぶ人が増えるほど、担い手が疲れる。
この循環は、加速度的に仕組みを腐らせる。

駅で売るのがナンセンスなら、文化は“場所”を移すしかない

もう一つ、冷静な話もしておく。
もし社会が時短化し、乗り継ぎが最適化され、「駅で弁当を買って車内で食べる」舞台が縮むなら、駅弁は駅に固執しないほうがいい。
実際、駅弁フェアがスーパーや百貨店で成立しているなら、文化は“場所”を移して生き延びているとも言える。

だが、ここにも請求書はある。
場所を移せば、駅弁は「旅の途中で食べる文化」から、「イベント商品」へと性格が変わる。
それは悪いことではない。ただ、変わる。変わるなら、その変化を引き受ける必要がある。
文化を残すとは、昔の形のまま保存することではない。
残すために変えるなら、何を捨て、何を残すかを決めなければならない。

私は最後にいつ、支払っただろうか

「文化だから守れ」と言うのは簡単だ。
だが、その言葉が一番危ないのは、守る気持ちだけが増えて、支える習慣が増えないときだ。
守れ、は、ときに“請求書を見ない正義”になる。

駅弁は、社会の縮図だ。
「誰かが支えてくれる」前提で回っている仕組みは、最後に必ず壊れる。
壊れた後に、みんなが優しくなる。だが優しさだけでは戻らない。

だから最後に一つだけ、自分に問う。
駅弁を「残してほしい」と言う前に、私は最後にいつ、少し高いそれを買って支えただろうか。

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