役所の窓口で感じる「回覧板DX」の違和感
役所の窓口で、同じ内容を何度も書かされる。別の用紙でもう一度、似た項目を埋める。待ち時間も長い。
悪意があるというより、「仕組みが古いまま残っている」だけに見える瞬間がある。
体感として、あれは町内会の回覧板に近い。順番は整っているのに、どこかで止まる。回すこと自体が目的になり、手間だけが積み上がる。もし回覧板を“DXする”なら、まず「同じことを二度書かない」から始めたい——そんな種類の不便だ。
そんなときに、衆院選で「チームみらい」が躍進したというニュースを見た。政局の勝ち負けというより、暮らしの側、つまり手続きや制度の使いにくさの方から、気になってしまった。新しい勢力が伸びるときは、期待と警戒が同時に立ち上がる。その揺れを見ていると、DXの是非というより、DXの“設計”が問われているように感じる。

期待の本体は「しがらみの無さ」なのかもしれない
体感として、政治を礼賛も叩きもしない。ただ、DXを「暮らしの設計」として見たい。便利さだけでなく、可視化と副作用まで含めて考えたい。視点はそこに置く。
期待の芯は、こう整理できる。
しがらみの無さが、儀礼化した手続きの摩擦を減らす。摩擦が減れば、次に「見える化」が進む。見えるようになれば、説明責任や配分の議論が始まる。けれど可視化は、短期最適化へ偏る懸念も連れてくる。だから“設計”が要る——という流れだという印象がある。
世論の温度感も、抽象化すると似た形をしている。期待として出やすいのは、手続きの効率化や行政DXといった実務の改善、政治資金や行政の状態、予算配分の見える化、そして安全や手間といった生活課題を技術で下げたいという願い。理念よりも「ちゃんと動くか」「負担が減るか」に寄りやすいのだと思う。

DXがもたらすのは「便利さ」より「可視化」だ
DXの価値は、速い・ラクといった便利さだけでは終わらない。むしろ本質は、状態が見えることにある——そう感じる。
見えるようになると、初めて議論ができる。どこで詰まっているのか、どこに負担が偏っているのか、どこに人手が溶けているのか。さらに言えば、何を優先して何を後回しにしているのか。配分の話まで届く。見えないままなら、現状維持が“無難”として残り続ける。古い仕組みほど、「見えない」ことが延命装置になってしまうからだ。
生活の側でも同じだ。たとえば病院予約や、行政手続きの案内の分かりにくさ。必要な情報が散らばっていて、結局どこに行けばよいかが分からない。誰かが悪いわけではなく、積み上がった運用がそのままになっている。ここが可視化され、手順が整理されるだけでも、暮らしの摩擦は確実に減るはずだ。
だから、期待があるとすれば「便利になる」だけでなく、「見えるようになる」ことにある。見えることは、説明の土台をつくる。土台があれば、合意形成の質も上がり得る。

「短期最適化」に飲まれない設計を残せるか
一方で、伸びるほどに懸念も強まる。万能論への違和感、置き去りへの不安、「正体が分からない」こと自体が警戒に繋がる。そうした型は、新しい動きが出る局面で起きやすい。ここは否定よりも、「起きやすい現象」として受け止めた方が議論が前に進む。
そのうえで、本稿の懸念は別のところに置きたい。可視化の副作用として、短期で数字が出るものが勝ちやすくなることだ。見えるものは評価されやすい。逆に、効果が出るまで時間がかかるもの、測りにくいものは弱くなる。可視化が進むほど、短期成果偏重の圧力が増える。そのとき「長期を守る設計」がないと、未来への投資が静かに削られてしまうかもしれない。
また、刺さった理由についても、テクノロジーの看板だけではなく、社会保険料の見直しのような“可処分所得に直撃する論点”が支持の背景にある、という見立てもあり得る。ただしこれは断定ではなく、そう見立てる声もある、という程度に留めたい。生活に直結する論点ほど、期待と警戒の両方を強くするからだ。
可視化が進むほど、短期で数字が出るものが勝ちやすい。
そのとき、私たちは短期最適化と長期設計をどう両立させるのか。何を「測らない価値」として残せるのか。——その問いに耐えるDXを、つくれるだろうか。



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